何のために、誰のために
元々勤めていた事務所は精鋭・スペシャリスト揃いの職場で「自分ってダメだなぁ」と毎日思い続けていました。
それでも、歯を食いしばりながらやりがいを持って仕事をしていましたし、所帯を持ってからも、繁忙期には会社の所有していたマンション(という名の倉庫)に寝泊まりするというような生活を変えようとはしませんでした。
パソコンに向かう、フィールドワークでマチを観察する、会議資料を説明する、などといった仕事上の動作以外は完全に自分のスイッチをオフにする生活でした。
そのため、都市に関わる仕事をしていたにも関わらず、自分が暮らしていたマチのことをほとんど覚えていません。ただひたすら、自分の仕事はきっと、社会の役に立っているはずだと信じて疑わない日々でした。
羞恥と無念と贖罪
そんな日常に終止符を打つことになったのは、2011年3月11日のことです。あの日、あの時間、私は国交省におり、ある調査業務の最終打ち合わせをしていました。
行政発注の調査業務は3月工期のものが多いことは皆さんもご承知のことと思いますが、12月にようやく発注された、それなりの金額の業務で、文字通り寝る間を惜しんで調査をし、報告書を書き上げました。その甲斐もあり、国交省の担当者からは「短い工期で良い成果を納めて頂きました」と褒められたのですが、それに喜びを感じた自分を恥ずかしく思いました。なぜなら、上で述べた通り、自分自身は生活者の幸せのために仕事をしていると信じていたにも関わらず、目の前の担当者から褒められたことを嬉しく思ってしまったからです。
「一体どこを見て仕事をしていたのか?」
国交省の入居している中央合同庁舎3号館を1階まで降りるあいだ、そんなことを考えながらモヤモヤしておりましたが、隣接する2号館に歩を進めていたタイミングで、あの地震が起きました。
今までに経験したことのない、大きなエネルギーを感じる横揺れに立っていられなくなりました。国交省の入居するビルですから、職員の皆さんも情報収集のために慌ただしく動き始めます。
地下鉄は止まっており、会社に戻れないため、私は2号館エントランスに設置されているBS全局が映るマルチディスプレイの前に移動しました。
各局臨時放送に切り替えられており、東日本が赤く明滅する日本地図と、確か気仙沼だったと思いますが、沖出ししている漁船が映っていました。